某月某日!!

日常のこと。音楽、本、散歩のことなど

雑記

強風に飛ばされて。

 

ども、コバチヨです。

 

■祈りの力がどんどん目減りしていく

 

前回の近況に引き続き、新型コロナウィルスへの愚痴と雑感のようなものを書くわけなんだけど、出かける場所も最小限にしないといけないし、買い物もきっちりリストにして買いもれが無いようにしないといけないし、ここ2か月位、買い物が全然楽しくないものになってしまっている。

買い物がここのところ、つまらない事になってしまっているものの、買い物リストの中でも果物、特にみかん、いちごに関しては沢山の品目が存在していて、八百屋さんで様々な品目のいちごが並べられて販売されているので、違う品目を買い物に行くたびに買ってきては食べてみるという事が買い物の中でのちょっとした楽しみだったりする。今の時期はいちごが出回っていて、地元神奈川・平塚をはじめ、栃木や静岡、福岡産のイチゴが近所の八百屋で安価で手に入るのだけど、新しい品目があったりすると嬉しくなってしまうし、買い物の中でも唯一の楽しみになっているのが救い。

 

諸外国では、軍隊組織もあるような、いつ何時、戦争やら紛争があるかもしれない前提で日ごろから動けるようになっているからなのか、今回の感染病対策も、国の首長からの戦時と同様の、非常に緊張感のある指示(都市封鎖、外出禁止令等)がどんどん出ている状況なんだけど、我が国でも新しい感染対策法案が可決されたり、買い占めパニックやら感染抑制のためのデマなども飛び交っていたりもするけれど、それでも川沿いをふらふら散歩をしたり、行きたい時間帯に食材の買い物に行ったりする自由がまだ残っているだけでもありがたいなと思って過ごさないといけないのかもしれない。集会の自粛、公共施設の閉鎖も当面あるだろうけれど、散歩はできるからまだましだろうな。

 

他に、新型コロナウィルスのニュースで思ったのは、自分の中の祈りへのありがたみが日に日に目減りしていっているという事だ。

過去の歴史を振り返っても、大きな困難と祈りはセットであった。それが、新型コロナウィルスの前においては無力で、神聖な場所で、同志が集まり祈りをささげても、感染リスクが高くなるばかりで、却って新型コロナウィルスの勢いを増してしまうし、実際に、韓国とイランでクラスターが発生してしまった。

個人で毎日何らかの祈りを捧げている人は沢山いるだろうけれど、新型コロナウィルスという、情報がどんどん更新されてはいるものの、相変わらず全容が掴み切れていない感染病を回避するために祈るのも、モチベーションが続かないだろう。祈るよりも、一人一人が日々清潔に暮らし、健康に気を付ける事がとても大事なのは明白だからだ。自分の心の不安を鎮めるために祈る事にはある程度有効なのかもしれないが、没頭できる何かに置き換えてもそれは有効だろう。祈りって実際のところ、何のために捧げるものなのか、ここにきて私はわからなくなってきてしまった。

新型コロナウィルスが収束するのはきっと、来年以降になるのだろうけど、終息する頃に自分の中の祈りへのありがたみがどれくらい減っているか、また書きたいなとは思っている。

それにしても、新型コロナウィルス対策のために、神棚に置くなら無病息災のお札なのか、クレベリンなのか、どっちがマシなんだろう。ホントに。