某月某日!!

日常のこと。音楽、本、散歩のことなど

美術鑑賞はつらいよ

えさのように袋に詰められた大量のコッペパンを食べる日々。

 

ども、コバチヨです。

 

ホットドッグばかり食べてしまう。旨いんだ。

 

■美術鑑賞はつらいよ

 

小規模な世界で小規模な生活をしている自分なのだけど、久々に大都会東京に出かけてきた。上野の国立西洋美術館で行われている「松方コレクション展」と常設展を見に行きたかったからだ。

国立西洋美術館を作るきっかけになった松方コレクションを世界、国内から集めて展示するものだったのだけど、印象派の絵画って、頭がぼんやりしていても受け入れてくれるから人気なのかななんて思ったのだった。ブルース・リーじゃないけど、どうも不勉強な自分だから”考えるな、感じろ”を美術作品の前でしてしまうもので、本当は何日か徹夜で美術書を読んでから鑑賞しないといけないだろうに、どうも絵画を前に、「癒されるぅ~」などと言って、描かれている風景の中に埋没し、かわいらしいモチーフのノベルティグッズなどあると買ってしまうというのか。

ただ、常設展になってくると、14世紀以降の作品が多かったので、宗教画の割合が高く、キリスト教の聖書のエピソードにちなんだ絵画が並ぶし、聖書を読んだことのない人には、なんのことかさっぱりわからないという事になってしまうから、美術鑑賞は作品の題材になる事柄の知識がないと厳しいのだなという事を思い知らされてしまったわけだ。

そんなことを、連日ネットで話題になっている、あいちトリエンナーレ「表現の不自由展」にも思ってしまったのだ。作品を鑑賞していないので、あんまり書いてはいけないのかもしれないのだけれども、現代芸術というものも、現代芸術の楽しみ方も、全然日本では理解されていないのだなと、今回の騒動で思うのだ。

現代芸術のような現代社会の様々な問題や現象について作品を通して考え、理解するとこと、心をゆさぶられることが鑑賞の仕方になっているというのであれば、作品に違和感を感じても、それを真っ先に否定したり排除したりしてはいけなくて、作品で示される違和感について、なぜこの違和感があるのだろうと、考えをめぐらさないといけないだろうし、自分なりに作品に対する違和感が生じた理由をみつめることが鑑賞の仕方だろうなと思う。

まぁ、作者が取り上げた題材が、わかりやすいもので、人によっては何らかの挑発的なものを感じさせるものであれば、ある程度の反応は作者自身も覚悟しているだろうし、作者によっては意図しているものなのかもしれないが、そこにクレームや暴力、SNSでの展示の関係者のマイナス情報の拡散などで、展示をやめさせようというのは、残念過ぎる。ただ、実際中止になったわけだから、感情論じゃなくて中立的な雑誌などで議論をしてみせるのがいいのかなと思う。SNSだと、リアルタイムで話を展開させることになるから、どうしても感情的になる部分というのがあるからだ。

自分も、思い込みで大失敗するのだけど、見る対象について深く理解するために日々いろんな情報を収集したり、本を読まないとだめなんだろうな。そして、落ち着いて対象を前に対峙するということ。現実生活において全然できていないことなのだけど、せめて美術作品や音楽だけでも、深く理解する姿勢ができるようになりたいな。考えされられたよ。

 

ぼくの美術帖 【新装版】

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 原田治さんの展示が世田谷でやってるんだけど、行きたいな。